そのニジはいつか。





ニジオイ。


 踊る様な通り雨のあと、曇り空はさらりと蒼い深さをのぞかせた。雨絃に代わって降る光が、空中に散乱して眩めく。
 きらきらしい、雫の名残の匂い。






『―――もしもし、紘夢?』

 機械を廻ったひかげの声は、掠れる様に低く響いた。

「……って、ひかげさんっ?」
 寝転がったまま通話ボタンを押した紘夢は、ばっと身を起こした。ろくに画面表示を見なかった所為で、完全に意表をつかれた形になる。
 何しろ―――ひかげだ。1年以上前に携帯の番号を教えたは良いが、一度も向こうからは電話をしてこなかったひかげだ。驚く以上に焦った。
「どうしたんですか、電話なんて。何かあったんですかっ?」
『……そんなに慌てなくても良いと思うよ』
 ふわりと耳元に笑みの気配が伝わる。回線越しの波長は曖昧だが、此方の感覚が麻痺しそうに浮遊する揺らぎは、彼の上機嫌を示す様に心地良い。その穏やかさに、一瞬浮き足立った紘夢の動揺も程無く鎮まる。
「何も無いなら良いんですけど……どうしました?」
『うん。紘夢、暇?』
「今ですか?まあ暇ですけど」
 暇ではないのはひかげでは、と訝る。
 今日は祝日だ。紘夢は特に用事が無いので寮に居るが、ひかげはバイトが入っていた筈で。しかし、そこを訊ねる前に、彼の言葉が連なった。
『暇なら外に来れるかな。今、寮の前に居るんだけど』
「はあ……」
『今すぐ』
 急かす類の発言は珍しい。彼が外に誘うのも。
 首を傾げつつ、紘夢は通話を切った。






 たゆたうのは、凋落した雨の匂い。

 さらさらと空気に混じる水を透かして、光が乱反射する。眩暈を憶える程の明るさに、紘夢は眼を細めた。狭窄した視界の裏側で、残像の斑紋が踊る。
 無意識に手を翳して眺めた周囲に、紘夢はすぐ探す相手を見つけた。雫の様に降る光を、殆ど反響しない漆黒のシルエットは、何処か総ての明るさから乖離して、そこに夜を凝縮したようだった。

「―――ひかげさん」

 陽のひかりを避ける様に木蔭で佇立していた彼に、声をかけて歩み寄る。
 そして、振り返った相手を眺めてぎょっとした。
「……って、何でそんなずぶ濡れなんですかっ!?」
 絃を切った人形の様に立っていたひかげは、紘夢の言葉を意に介さずふわりと笑う。葉ずれの音と一緒にさざめく樹漏れ陽や、黒が基調の服装の所為で誤魔化されているが、良く見れば彼は全身に水を撒いていて。
「傘、持っていかなかったから。雨が降るとは思わなかったし」
「……ひかげさん、天気予報見て下さい。今日は午前中、降水確率50パーセントでした」
「うん、次は見る」
 流石に苦笑めいた微妙な調子で首肯した相手だが、懲りた様子は無いから、きっとまた同じ事をするに違いないと確信する。無頓着、というよりも、皮膚を滑る水滴を嫌っていない様子だ。
「取り敢えず、着替えないと風邪引きますよ。タオル持って来ましょうか」
 呼ばれたのはこの状態で部屋に入れなかったからだろうかと思って提案した紘夢に、ひかげは小さく首を振った。艶やかな黒髪を伝う雫が、ゆらゆらと揺れて光を閉じこめる。
「大丈夫だよ、それほど寒くも無いから。それより」
 水の珠を帯び、漆黒の深さを増す髪を指先で梳き上げて、ひかげは何処か楽しそうに空を示した。
「……虹が出てるよ」


 白い指の指す距離の先には。
 三日月を彩る様な弧を描く、朧げな幻影。
 掠れた蒼の深さに、眩惑する様に遠い、なないろのひかり。


「わ、凄いっ」
 此処何年も見た事の無かったスペクトルに、紘夢は歓声を上げた。
 巨きな虹。緩やかな曲線と色の移ろいを霞んだ空気に刻んで、なだらかな希望の様に架かる。
「全然気づかなかった。綺麗ですね」
 視線を返した先で、空の橋の総ての色と対称的に、総ての色彩を排斥した彼は微かに笑った。僅かな違和感を孕む微笑。
「うん、おまえは好きだろうと思った」
「え、ひかげさんは嫌いなんですか?」
「嫌いなわけじゃないけど……」
 ぼやけた虹の境界をなぞる様な曖昧さで呟き、ひかげは言葉を言葉を探って視線を宙に浮かせる。
「……苦手、なのかな」
「苦手?」
 普通は選ばないだろう形容に眉を寄せる。虹に無い黒と白で装う彼は、緩やかに首肯して呟いた。
「……虹の麓が……」
 舌先で囁かれた単語は鼓膜に届かず零れた。え、と訊き返した紘夢に、ひかげは何処か調和しない苦笑を浮かべた。
「何でもない。……御伽噺だよ」
 精緻に端整な頬を掠めた微妙な揺らぎを捉える前に、ひかげはそれだけを言って視線を逸らした。
「おれはそろそろ部屋に戻るけど……おまえはどうする?」
 はぐらかされた様な理不尽さを少しだけ憶えて、紘夢は様々な意味を重ねて溜息をついた。
「どうする、って、ひかげさんそのままじゃ部屋に入れないでしょ。一緒に行きますよ」
 雫を響かせる横顔に、何か拭くものを持って来るからと告げる。ひかげは現在ひとり部屋を使っているから、同室の人間に頼むという選択肢は無い。
「……悪いな、紘夢」
 微かに躊躇う様子で提案を呑み、ひかげは踵を返した。その後に続いて歩き始めようとして───ふと紘夢は、重要な事を訊き逃していたと気づく。
「あの、ひかげさん」
 遠ざかろうとしていた背中が振り返った。木蔭から出た彼に、明るい空が眩めく程に鮮やかな陽を撒く。
 さらさらと、蜃気楼の様に揺れて。
「───虹、苦手なら、どうして見に来たんですか?」
 というよりも、どうして自分に見せてくれたのか。
 呈した疑問符に、ひかげは虚を突かれた風な、何処か無垢な戸惑いを浮かべた。それほど奇異な質問ではなかった筈なのに、まるで予想しなかった事を言われた顔をしている。
「……どうしてだろう?」
「や、俺に訊かれても」
 不思議そうな視線で此方を眺め、首を傾げているひかげの仕草は珍しかった。やけに屈託の無い純粋な動揺に、思わず微笑む。
「別に理由が無いんなら良いんですけど。珍しいなって思っただけだし」
 言いながら、紘夢も木の葉の陰から陽だまりに抜けた。数歩先に居るひかげに追いつく。何処か曖昧な輪郭が硬度を増して固定され、距離が狭まる印象。
「行きましょう」
「ああ……」
 茫洋と応じて歩き出したひかげは、暫く淡々と歩いていた。眼を伏せて鬱屈する様に沈黙する横顔はつくりものめいて怜悧で。
 ───しかし彼は一瞬、微かに上げた視線で天を仰ぎ、何かに気づいた様子で足を止めた。
「ひかげさん?」
 隣で立ち止まった紘夢の眼前で、ふ、と、水滴が漂う様な微笑が浮遊した。冷淡な印象を裏切って綻びる 微笑みに、思わず視界を奪われる。
「……一緒に見たかった、のかな」
「え?」
 唐突な言葉が先程の会話の続きだと理解するまでに数秒かかった。その解釈が彼の言葉に追いつくとほぼ同時に、彼の視線が紘夢に置かれて。
「おまえと居ると、虹の麓も見えるような気がする」
 虹の麓。そのたったひとことが、紘夢の中で古い記憶と連鎖した。


 虹の麓。幻想の裏側には何がある?


 明度を増した空に、虹が掠れて存在を解かしていく。
 密やかな喪失は絶望に似ている。砂が堕ちる様に留まらない、崩壊に似た消失。だから、その麓を探す事など空想物語に過ぎなくて。
 それでも彼は、虹の麓が見える気がすると言った、それは。
「……おまえは、虹の麓を探す様な事をしているからな……」
 完全に独白として零れた言葉だったが、紘夢は漸く意味を解した。


 虹の麓には宝物があると、言い古された御伽噺。
 それは、ひかげが一度放棄したものであって。
 そして、紘夢がまだ放棄出来ずにいるもので。


「───じゃあ、ひかげさん」


 虹の麓には、届かない宝物。いつかは潰える、希望。
 象徴する、その痛みがある。
 それでも探してしまうのは───それはたとえば。


「……見つけたら、見せに来ますよ。一番に」


 あなたがしんじていないすべてを、いつか。


「……やっぱり、おまえらしい」
 満ちる様に、彼はそう呟いて頷いた。
 雨上がりの世界に降る光が虹を霞めてかき消していく、その過程を皮膚に刻んで。
 陽の散る明るい雫を飾って、ひかげは冷たい指先を紘夢の髪に通した。流麗な仕草で笑み、僅かなひかりを籠めた音で呟く。翳らない仕草だった。


「───期待してるよ、紘夢」






 それは、いつかのニジを待つ言葉。届かない虹の麓を追う、ささやかな希望の続き。






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4040を運悪く踏んでしまった祭屋ちゃんにリクエストをさせたして頂いた話。
リク内容は「屋外デート(ほのぼのと)」(笑)でした。
ひ、ひかげさんが外に出ている……!(笑)

祭屋ちゃん、書いてる此方も楽しいリクをありがとうでしたっ。
(そしていつも通り微妙に解りづらい話で申し訳ない)

2005.05.12 ARSTECE













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